窮鼠

 


レトロなカーステレオ。

やけに爽やかな音楽。

行定勲」の文字。

 

「一瞬で恋に落ちた」

 

予告で何度も聞いたあのモノローグのように

開始二秒で「あ、好きです」と

両手で白旗を上げた。

 

その第一印象のまま最後まで

細部に至るまで好きな映画だった。

 


公開初日。

一人でレイトショーを見終わったあと

「すごく誰かと話したい」

と同時に

「誰とも分かち合いたくない」

と思った。

 

これまでにない感性の消耗に

雨上がりの夜の街を放心状態で帰った。

 

あれから一週間あまり。

 

視界の端に映画のワンシーンが

フッと浮かんでは消え、

うっとりする感覚だけを味わっていたいのに

頭はあれこれ解釈しようとしてしまい

生活の合間に溜まったメモの断片を見ながら

「解釈しようだなんて業!」

と思いつつ書いている。

 

 

 

映画「窮鼠はチーズの夢を見る」

 

原作は全二巻からなるBLコミックス。


獲物を追い詰める黒猫=今ヶ瀬と

追い詰められる窮鼠=恭一の

恋の攻防を描いたドタバタラブコメ

攻防がある関係には役割の転換がつきものだ。

 

はじめは獲物を追っていた猫が

最後には最愛の人の愛に追われて

逃げまどう窮鼠になる。

愛されるだけの受け身な鼠が

肚を決めて愛する側になる。

 

BL的にもダイナミックな役割転換があり、

それはそれは切ないシーンだったけど

外野の私は羨ましかった。

入れ替われるということは

対等であるということだから。


映画の冒頭、

自転車にまたがる恭一のバックショット。

一方の今ヶ瀬は車。

 

乗り物が違う、

生きてるスピードが違う、

嗜好が違えば性的嗜好も違う。 

仕事も違う。

生きる世界の違う彼ら。


それでも恋をするときは

不器用さも含めて対等だ。


一途に愛するのが得意な彼は

愛されることがどんなに怖かっただろう。

愛させるのが得意な彼は

愛することがどんなに不安だっただろう。

 

こんな怖い思いをしてまで恋をして

ジタバタもがいて

ときに自分を見失う彼らが

とても愛おしかった。

 

 

今ヶ瀬が車で恭一を海に連れて行く。

あのシーンが私は羨ましい。

男と女ではあの画にはならない。


負け惜しみのように、

今ヶ瀬は恭一に

「あんたみたいに愛情を欲しがるくせに

    全くそれを信じない奴は嫌い」

と言う。(意訳)

 

嫌いなのになんでそんなに好きになったの?


そもそもが

「相手に心底惚れるっていうのは

    その人だけが例外になる」

というお話で、

それはつまり

「例外にならなければ

    心底惚れてるとはいえない」

と言うこともできる。

 

これが事実ならなんて残酷なんだろう。

 

奥さんもたまきも

誰から見ても恭一の好きなタイプだったけど

好きなタイプである時点で

どう頑張っても唯一の例外にはなれない。

 

 

原作で今ヶ瀬は

「どっちに回っても相性最高な相手を

    ノンケの中に混ぜとくなんて   

     神様ズルいよ」

と言うが、その点でも彼にとって恭一は

例外中の例外だった。

 


『じゃあ恭一にとっての今ヶ瀬は?』

 

 

ゲイバーのシーンは映画オリジナルで、

恭一が自分のしたことと

自分にとって今ヶ瀬が何なのかを

思い知るきっかけとなる場面だと感じた。

 

ゲイの今ヶ瀬ならここにいるかもしれないと

来てみたものの、

はじめて踏み入れる世界に足元がぐらつく。

夏生の言う「ドブ」だ。

 

"こんな場所"に今ヶ瀬がいるわけがない。

見つけたくない。

結局自分は何も分かってなかった。

彼がどんな思いでゲイとして生きてきたか、

自分が普通に男友達に言うように

悪気なく拒むことで

彼をどれだけ傷つけてきたか。

今ヶ瀬がいかに他の人と違って特別なのか。

今ヶ瀬が自分にくれたのが

どれだけ居心地の良い愛だったかを思い知り

吐き出すように泣く。

 

原作では、恭一が

「俺は同性愛者の男が

    どれだけ男を愛するものなのか知らない」

と、自分の愛情に確信を持てない様子が

よく描かれている。

 

恭一は愛されることばかり

求めているように見えていたけど、

本当はそれ以上に

人を愛したかった人なのだろうと思う。

 

 

恭一は言葉で示すタイプじゃないけど

その分、表情に全部出る。

 

妻やたまきに向けた慈しみの目と、

今ヶ瀬に「バカだねお前は…」

と言ったときの

心から愛おしそうな目は別物。

 

夜中に抜け出す今ヶ瀬の背中に向かって

「早く帰って来いよ」と言う

その優しい響き。

 

優しくしようとして優しくするのは

愛してるから優しくしてしまうのには

勝てっこない。

 

ああこの人は今ヶ瀬が好きなんだなあと

分かってしまった。

 

ラストシーンの恭一が

あんなに爽やかに見えるのは、

映画を見ている者には

恭一がちゃんと

今ヶ瀬を愛してたと分かるから。

 

 

海辺のシーンの分断は

「夢を見る」にふさわしかった。

 

恭一は今ヶ瀬の椅子に座って

何度でもあの海を

あの日の今ヶ瀬を

夢見るように思い出すのだろう。

 

それは芳しいチーズの夢。

 

 


灰皿とライター

 

今ヶ瀬が恭一の家に持ち込んだ

数少ない私物で、

この作品の重要な小道具。

 

片方があるところには必ずもう片方が必要で

一緒になければ片割れの存在を仄めかす。


今ヶ瀬が置いて行った灰皿がたまきに

恭一の一生忘れられない『女』を想像させ

プレッシャーになり続けていたように。

 

原作にはなく映画で印象的だったのは、

恭一が灰皿を綺麗に洗って

テーブルに置くシーン。


まるであの家の特等席のような、

帰ってきたらすぐに見える場所に

今ヶ瀬を受け入れる場所の象徴として

明るい色の灰皿が置かれている。

耳のような何かちょっと思わせぶりな形の。


映画では、ライターは灰皿と一緒に

恭一の家に置き去りにされてしまう。

 

恭一にもらったライターを置いて行ったなら

もう戻らないつもりだろうけど、

何度出て行っても帰ってくる

原作の野良猫・今ヶ瀬を思うと

ふらっと戻ってくるような気がしてしまう。


灰皿とライターを捨てたからって

煙草がやめられるわけじゃないように

モノなんか何もなくても

心と体は好きな人を忘れない。

 

・・・


ある日、恭一が仕事から帰ると

今ヶ瀬がしれっとソファーに座っている。

恭一も普通に受け入れる。


女たちも観客も締め出したドアの中で、

性懲りもなく恋をしている。


そんな気がするのだ。

 

 

 

好きなお芝居について

 

まずは大倉さん。

表情がとても素敵だった。

 

今ヶ瀬への思いが滲み出るお芝居もだし、

女たちに責められて戸惑ってたり

ぼーっと外を眺めながら

「今ヶ瀬何してるかなー

    やっぱり今ヶ瀬のほうが居心地いいなー」

という残酷な無邪気さ、

彼女が帰った(恭一が帰らせた)後に

「今日彼女泊まっていかないって」と

平然と今ヶ瀬を家に招き入れる恭一。

 

本当にどうしようもない男だし

情けないシーンもたくさんあったけど

大倉さんがとてもチャーミングで

恭一の優しさが伝わってきて

なんだか憎めなかった。

 

関西弁に関しては

はじめの同僚と話してるシーンで

一瞬「大倉さんだ♪」と思ったけど、

屋上のシーンではもう

「恭一は東京で暮らしてるけど

    出身は西の方なんだなあ」

って完全に恭一として見ていて

自分でも驚いた。

大倉さんのことすっかり忘れてた。

 

 

そして成田くん。

 

前半は今ヶ瀬に感情移入して

泣くのに忙しかった。

 

奥さんに黙っててほしい理由で恭一に

「好きだからだよ」

と言われた瞬間の表情が良い。

 

『好き』という言葉は

それが自分のことじゃないと分かっていても

好きな人の口から出ると

呪文のように心に絡みつく。

 

恭一にまっすぐ目を見て

「好きだからだよ」と言われて胸が詰まって

それが奥さんのことだから苦しいけど

でもスイッチ入っちゃうよねえ…

と思った。

 

「見た目が綺麗で人間ができてて…」

の長ゼリフ素晴らしかったなあ。

 

かわいらしいのに恭一より少し背が高いのも

完璧に今ヶ瀬だった。

 

いやー、恭一と今ヶ瀬のキャスティング

考えたの誰?  監督!?  天才!!

 

 

 

 

男二人のお話だけど、

どうしても女の話をしたい。


この映画で女はどこまでもヨソモノだ。

 

今ヶ瀬がはじめて家に来て

恭一が「いいから入れよ」って招き入れ

ドアノブがくっと上がるシーン。

そして、

元カノが完全敗北で締め出されるドア。

 

外から見たドアは二人だけの閉じた世界。

女を締め出して、それは成立する。

 

 

幸せそうな恭一と今ヶ瀬を見て、

同性ならこんな風に

互いを理解し思いやれるのに

どうしてこの世は男と女で一対なのか?

男と男でいいじゃん!  女いらないじゃん!

と思った。

 

でも違う。

 

彼女の実家の戸棚を直したり

瓶のフタを開けたりというシーンは、

女性が男性を必要としている

ということなのだ。

 

男の人には感謝して

優しくしないといけませんね…

 

 

この映画で

今ヶ瀬が「女」をしないのがとても良い。

恭一のいない部屋で

お洗濯してお風呂沸かしてグラタンを作るが

世話やき女房みたいなシーンはない。

 

彼らは男同士だから

さり気なくて恩着せがましくない。


性の役割に規定された優しさじゃなくて、

恭一に居心地よくいてもらいたくて

今ヶ瀬が純粋な気持ちでやるところに

愛がある。

 

(っていうかグラタンってホワイトソース作るのめちゃくちゃ大変じゃん。コトコト系じゃん。「これお前作ったの?美味いよ」って微笑む恭一が見たかったんだよね今ヶ瀬…😭)

 

 

 

女優さんも全員本当にお芝居がすごかった。

 

「男が選ぶのは女」というのを

かましくも屈託なく信じきっている

なんだか健気な女たち。

 

 

まず、奥さんの知佳子を演じた

咲妃みゆさん。

 

別れ話のときのお芝居がすごかった。


漫画では「何ワガママ言ってんだ?」って

理解できなかった彼女の気持ちが、

映像だと痛いほどよく分かった。


何か大きな出来事があった訳ではないけど、

頑張ってたんだけど小さな違和感が重なって

いつの間にか互いの努力だけでは

どうにもならなくなってしまったこと。

 

色んな感情を押し殺して思い詰めた表情で

恭一に離婚を切り出す顔に

「この人には私じゃだめだし、

    私にはこの人じゃだめだ」と

どこかで直感したんだな、と切なくなった。

 

 

 

次に、不倫相手の瑠璃子を演じた

小原徳子さん。

 

不倫相手というのは

物語では嫌われ役になりがちだが、

私は実はこの人が好きだ。

 

何の権利も主張できず、

こんな関係でもいいから側にいたいと言い、

恭一の家庭を気遣う健気な女性。

体を好きにさせることでしか

振り向いてもらえない切なさ。

 

恭一のタイプとは違うことが残酷で、

でもそんな彼女にしか埋められない穴があって。

 

もしいつか幸せになれたなら

お祝儀めちゃくちゃ包めよ恭一!と思ってる。

 

 

 

そして、元カノの夏生を演じた

さとうほなみさん。

 

も〜〜夏生は怖かった………

でもしおらしくする必要のなくなった女って

こうだよね…

振り返って胸がイタタタタ…

 

「ドブ」と言われたときは

あんな美しいものがあんたに分かるもんか!

と今ヶ瀬の肩を持ってしまったが、

有利な「女」というカードで

勝負に敗れた彼女の悲しみも分かる。

 

サクッと下着をつけて、

捨て台詞もキレよく

格好つけて出ていく彼女は

いじらしくて可愛いではないか。

 

 

 

最後に、たまきを演じた

吉田志織さん。

 

彼シャツの破壊力。

健気の権化。

控えめでいてたくましく

相手を思いやりつつ着実に外堀を埋める。

現実ならこのまま結婚するんだろうけど、

窮鼠はタイプの人が最愛にはならない。

 

恭一が昔の『女』を思ってるのを察知して

一瞬敬語に戻るリアルさ。

 

そんな男は傷の浅いうちにとっとと忘れて

普通に幸せになりましょうね。

 

 

 

まとまらなかった

 

うーん、まとまらなかった。

映画の感想って難しいなあ!

 

色んな表情を反芻しながら

こうかなあ、ああかなあと

好きなお話のことを考える時間が

とても幸せだった。

 

本当はもっと好きなシーンや

お芝居のことを考えたかったけど

もうかなり忘れてしまっているし、

それは二回目を見てからの

お楽しみにしよっと。

 

今度はまた平日の昼間なんかに

違う映画館へ行ってみよう。

海辺の映画館なんてあったら素敵だけど。

 

 

「窮鼠はチーズの夢を見る」

の夢を見る日々は

もうしばらく続きそうです。